

11月6日
1778年11月6日、モーツアルトはパリからの帰途、再びお気に入りのマンハイムに到着します。父レオポルトは、何の成果も得られなかったパリから早々に帰るよう度々催促し、しかも息子が懇意にしているらしいヴェーバー家のいるマンハイムに立ち寄ってはならないと指示していましたが、ヴォルフガングはあっさりとこの言いつけを反古にし、恋するアロイジア(後に結婚するコンスタンツェの姉)会いたさにこの街を訪ねたのでした。父にはばれないと思ったのかな。恋は盲目。7月に母を亡くしたばかりだというのに、22歳のモーツアルトには目先の事しか見えていません。結局アロイジアにはあっさりと振られてしまうのですが、この街のオーケストラは当時最先端の名門でしたから、恋と同時に音楽的な興味も大きかったのでしょう。モーツアルトはこのマンハイムで雇用されるのをかなり期待していたふしがあります。
ところでこの頃モーツアルトは、オペラ化する興味を持って二つの作品の台本を常に持ち歩いていたようです。ひとつは後にケルビーニが書く事になるドラマティックな物語「メディア」。もう一つは「ナクソス島のアリアドネ」。これまたR.シュトラウスがオペラ化しますね。この2作品にモーツアルトは大変刺激を受けたらしく、「私はこの二つを大変気に入っているので、いつも持ち歩いています。」と手紙に書いています。
違う作曲家が同じ物語りをオペラにしている例はいくつか見られます。最も有名な所ではプッチーニとレオンカヴァッロが書いた「ラ・ボエーム」ですが、どちらも大変有名になったものは何故かありませんね。お互いに書いているのを知らずに作曲に取り組むなら別ですが、既に誰かが書いてしまった物には興味を示さないのが普通でしょう。オリジナリティは作曲家には大問題ですからね。例えばモーツアルトがあんなに素晴らしく書いてしまった「フィガロの結婚」に敢えて挑むなんて、ちょっと頭の中を疑ってしまいますよね。
それでもモーツアルトがもしも「ナクソス島」を書いていたら・・・。R.シュトラウスの名作とモーツアルトのそれが歌劇場の演目に並んでいたら、と想像するだけで楽しくなりませんか?おっと、もし書いていたらR.シュトラウスが書かなかったかな。・・・いや書いたかも。結構自信過剰だからな。
 
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