

6月8日
1781年6月8日、モーツアルトはコロレド卿との決裂を取りなそうとしていたアルコ伯爵から尻を蹴飛ばされ、最終的な解雇通知を受け取りました。約1ヶ月前コロレドより「直ちにザルツブルクに帰れ」との命を受けたモーツアルトは、それに逆らい二人の間は決定的に決裂しました。父への手紙にはコロレド卿の無理解と非道ぶりを書き連ね、自分がいかに惨めな被害者であるかを強調しますが、これはどう考えても身の程知らずなモーツアルトの問題でしょうね。アルコ伯爵という方は温厚で信頼のおける人物のようで、もちろん父レオポルトの事も考慮した上で、モーツアルトとコロレドの仲を取り持とうと奔走したようですが、そんな伯爵をして尻蹴にさせたのですから、どれほどモーツアルトが鼻持ちならない傲慢ぶりだったか知れようというものです。
現在と違い当時はどこかの宮廷に属すのは極当たり前の事。史上初めてフリーランスの作曲家として書きたい音楽だけを書き続けたのはベートーヴェンですが、モーツアルトもコロレドとの決裂して6年後の1787年の12月に、グルックの死に伴い王室宮廷作曲家となるまで自由気ままに名作を量産し続けます。これが最後に手に入れた唯一の肩書きですね。おっと、晩年に聖シュテファン教会の副楽長となりますが、これは無給の名前だけの肩書きですからね。モーツアルトは生涯自分の望む就職はできなかった人生でした。もっとも前半生には神童としてヨーロッパ中の賞賛を勝ち得ていたのですから、生涯を見渡せばまあ帳尻が合っていると言えるかも知れません。生涯を見たら帳尻が合う、とはかの山本周五郎の考えですよ。最高の肩書きを手に入れ風を肩で切っていたろうかのサリエリの音楽が、現在ではほとんど何も演奏されていないのを考えれば、就職できなかった苦悩がモーツアルトの心に染み入る音楽を生み出した、と言えそうです。
しかし人間生きているうちに日の目を見たいものですよ。よく亡くなった途端に叙勲を受けたりしますね。あれ見る度に、なんで生きてる内にしてやらんねん!と思うのは私だけでしょうか。モーツアルトがもし宮廷楽長にすんなりなれていたら、案外凡庸な生涯だったのかな。うむ、人生は分からない事だらけですな。
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