

9月3日
1787年9月3日、モーツアルトの持病でもあった胃疝痛をしばしば治療していた友人で医師のジークムント・バリザーニが死去します。まだ29歳という若さでしたが、ヴィーンでは評判の名医でもありました。遡る事4ヶ月の5月28日、父レオポルトがザルツブルクで死去しています。父の死は、モーツアルトにとって一体どのようなものだったでしょうね。彼を支配し、彼と共に幾多の旅を重ねた父の死は、モーツアルトの精神に一種のカタストロフを生んだでしょう。バリザーニが亡くなる直前、モーツアルトは誰からの依頼も無く二つの名作を書き上げています。一つはおふざけの極地「音楽の冗談」、そしてもう一つは魂に深くしみいる名作「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」です。この2曲は、彼の精神構造の両極を具現化したもののように感じます。そして友人バリザーニの死。体調に優れないものを感じ始めていたモーツアルトにとって、彼の周囲で起こる死は、いやが上にも彼自身の死をイメージさせたでしょう。かつて母の死を父に知らせる手紙の中で、「死はもう久しく私の友人です。」と小賢しげに書き送ったモーツアルトでしたが、自分の死を果たしてそのような平穏な心境で見つめられたでしょうか。バリザーニの死の知らせに、奇しくもこの年の4月14日にモーツアルトの記念帳に書き入れたバリザーニの文章の余白に、モーツアルトは「最も愛すべき最上の友人であり、私の生命を救ったこの気高い男」を失った事を深く嘆いている文章を書き入れています。
そんな相次ぐ嘆きの日々にも、モーツアルトは父の遺品を競売にかけ、翌月には「ドン・ジョヴァンニ」初演の為に、妻コンスタンツェと共にプラハへと旅だっています。死に彩られたセンセーショナルなこのオペラの作曲中に、父と友人の死を経験するなんて、これは偶然を通り越した何かを感じたりしませんか?モーツアルトの音楽は、残された4年の月日の中で、急速に高見へと上り詰めます。凡人には手の届かない至高の音楽を生み出しながら、彼自身の生活はそれと反比例しながら、急速に悪化し閉塞していくのでした。神様、あなたのなさる事は厳しいなあ。
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