


3月になるとようやく動向が少しだけ記録され始めます。
3月3日 ミューラー美術品陳列室にある自動オルガンの為の「幻想曲へ短
調」(K.608)を作曲する
3月4日 クラリネット奏者ヨーゼフ・ベールがレストラン店主イグナーツ・
ヤーンの広間で開いた演奏会で、ピアノ協奏曲変ロ長調を演奏。
これがモーツアルが生前公式に出演した最後の演奏会。
今参考にしている本の一つは、ヨーゼフ・ハインツ・アイブルが様々な資料から確認された日付を、できるだけ正確に生涯に渡り網羅した1961年の本ですが、3月にはもう一つ、23日辺りの一週間に某所で先の「幻想曲へ短調」が演奏されたと記されていますが、モーツアルト自身が関わったかどうかは分かっていません。少ない記録の中でやはり重要なのは、モーツアルト最後のピアノ協奏曲が自身により初演された、というものでしょう。自作自演が主流だった当時、彼は無数の演奏会で自作を披露してきました。晩年はこの後オペラ(ティトの慈悲、魔笛)の指揮をしていますが、演奏家として公開の場に出たのはこれが最後という事です。
物心つく頃から多くの演奏会をこなして来たモーツアルトが、この年これ以外の演奏会をしなかったのは、たまたまであったのか、身体の衰え等が原因だったのかは分かりません。しかし栄光の日々を経験した彼の脳裏には、一体どのような思いが渦巻いていたか、考えれば考えるほど切ないものがありますね。イグナーツ・ヤーンの店は、ラウエンシュタイン小路の彼の最後の住居のすぐ前にありました。この二つの演奏会は広告がちゃんと作られ、3月12日のウィーン新聞には演奏評らしい記事も載っています。
「・・・・楽長モーツアルト氏はフォルテピアノで協奏曲を一曲演奏したが、誰もが彼の作曲、演奏技量に驚嘆したのである。・・・・」
また、同日の同紙や16日の広告には、彼の作品の販売値段等が載っています。ところでこの楽長という表記ですが、これは彼を紹介する便宜上の物で、彼は本当は楽長にはなっていません。4年前の1787年グルックの死去に伴い「皇王室宮廷作曲家」の称号を与えられましたが、これは名ばかりの名誉職的なものでした。この称号の拘束で彼は晩年に渡り沢山のダンス音楽を書かねばならなかったのです。そして晩年の5月には「聖シュテファン教会の副楽長」に任命されますが、これも無給の名誉職でした。これについては5月にまた触れる事になるでしょう。
この二つが彼の後半生で手にした二つの職名です。現在に至るまでの彼への世界中の思慕と賞賛を思えば、これはあまりに悲惨ではありませんか?しかしこれが現実のモーツアルトの人生でした。

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