Morzart Symphony Orchestra
モーツァルト・シンフォニー・オーケストラ

マエストロ・ペンの  
  ある日のモーツァルト (1)

     マエストロ・ペンの

 「かけがえの無い友にして同士よ!
  今月の21日、つまり一週間後には、四半期毎の俸給を受け取ります。
  その時まで、20グルデンと少々をお貸し下さる気持ちがおありで、お貸し戴けるのでしたら、最上の友よ、
  とてもありがたいのですが。そして20日に(私がお金を受け取り次第)、
  私はあらゆる感謝の気持ちを込めてそれをお返しいたします。
  そのときまで、待ちこがれています。・・永遠に。」

 4月13日付けのこの手紙で、モーツアルトはフリーメーソンの盟友ミヒャエル・プフベルクに対して幾度と無く繰り返された借金申し込みを伝えています。これに対してプフベルクはこの手紙の端に「4月13日、30フローリン送金」と書き込んでいます。友愛の精神を謳うフリーメーソンでは、会員同士が助け合うのを義務としていましたから、プフベルクとしても無視はできませんでしたが、要求額と支払額には自ずと開きが出てきました。既にモーツアルトはプフベルクに対してかなりの借金をしており、しかも返されたかどうかは不明(おそらくは全額返済はしていない)ですから、プフベルクとしてもそうそういい顔はできませんが、グルデンとフローリンはほぼ等価ですから、大変奮発して送金した事が分かります。

 この手紙の3日後と4日後の土日には皇王室国民宮廷劇場において、音楽芸術家教会(トーンキュンストラー・ゲゼルシャフト)による、音楽家の未亡人と遺児の為の大音楽会が催され、次のようなプログラムが演奏されました。
 1. モーツアルト氏創作の大交響曲
 2. オペラ「フェードラ」(パイジェッロ作曲)からの抜粋
 この大交響曲は第40番のト短調で、しかもシュタードラー(後にクラリネット協奏曲が捧げられる)が参加したクラリネットを伴う版だったと考えられています。オペラは他人の作品ですが、モーツアルトはそのアリアをいくつか書いており、この日はランゲ夫人(未完の有名な肖像画を描いたヨーゼフ・ランゲの妻で歌手)がそのモーツアルトのアリアを歌い、演奏はサリエリの指揮する80人以上の編成によるオーケストラでした。交響曲についての評価は残念ながら残っていません。

 21日(恐らくはこの日から1週間の間)には、再びプフベルクに対して演奏会に招待する手紙を書いています。この演奏会は、宮中顧問官ザーレス・フォン・グライナー邸で催されたもので、この演奏会の為にヴァイオリン1丁、ヴィオラ2丁を借りられるよう口添えをして欲しいという内容ですが、本当の目的は追伸に書かれてあります。
 「お約束したにも拘らず、例の物をお返しできなかった事をどうぞお許し下さい。
  私が大変忙しく、シュタードラーが私に代わって銀行に行くべきでしたが、
  4月20日という日付を忘れていたのです。従って後1週間待たねばなりません。」
「魔笛」(不明ながら3月には着手していよう)の作曲で忙しいのは事実でしたが、いつもこのように理由を見つけては借金の返済を遅らせる日々でした。

 28日にはヴィーン市参事会に対し、聖シュテファン大聖堂楽長であるヨーハン・レオポルト・ホフマンの副楽長が病気であるので、回復するまで無給の副楽長として働きたい旨の嘆願書を提出しています。嘆願書には幼少期からいかに自分が各国において評価されて来たか、またホフマン氏の回復を心から願っているが、その一助となれば、という思いが書き連ねられています。結果的には翌月彼はその無給の副楽長に召し抱えられますが、当のホフマンは健康を取り戻しモーツアルト自身より長く生きながらえています。
 あの栄光に包まれた神童モーツアルトが、無給でも構わないから地位に就きたいと願い出ているなんて、信じがたい事実です。これ程までにモーツアルトは追い込まれていたのでしょう。

 翌29日には、姉ナンネルの第三子マリーア・バベッテが死去したという知らせがモーツアルトの元へと届きます。敏感なモーツアルトの事、自身に忍び寄る死の影を微かにでも感じ取ったのではないでしょうか。彼の余命は後8ヶ月です。

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